ポルカのリズムと月の光

作/美夜深眠


      ― POLKA DOTS AND MOON BEAMS ―


 氷の音と、とぎれとぎれの低いハミング。
 心地好い音に誘われて、半ばまどろみに抱かれたまま目を開けると、形の良い、節高の長い指が、まつげに触れそうなほど近くにあった。

 きれいな指だ・・・。

 ぼんやりと、見惚れる。
 紫乃には、一目見ただけで、それが誰の指であるかわかった。
 西脇の、指だ。
 クールな外見に反し、触れると意外に暖かで、肌に張りがあって、かたくて、なめらかで───とても、器用で。
 シーツに頬を埋めたまま、紫乃は連想の鎖をたどる。
 その指が氷の上で自分の手をホールドしてくれる時の、確かな感触。
 そして、今夜初めて知った甘い動き・・・翻弄し、時には呼吸さえ奪い、時には優しくすべてを受け止めてくれる・・・繊細で、それでいて少しだけ強引な・・・。
 「起こした?」
 ハミングが途切れて、静かな問いが降ってきた。
 と同時に、目の前にあった指が、ベッドの上にふんわりと散っていた紫乃の髪を、からめるようにすくいとる。
 紫乃は微笑した。
 西脇は本当に、紫乃の髪に触れるのが好きらしい。
 さっきも───情を交わしている最中にも、しきりと髪に手を差し入れては、丁寧な愛撫をくり返していた。
 「その曲・・・。」
 なんとはなしに、紫乃はつぶやいた。
 「ん?」
 「知っています。昔・・・。」
 そこまで言ったところで、ふいに、素早い指先が唇をふさいだ。
 驚いて、視線を上げる。
 西脇は、ベッドに半身を起こして、じっと紫乃を見下ろしていた。
 仄暗いルームランプに浮かび上がる、セピア色の肌。いっさいの無駄を排除した、どこかサラブレッドのような印象のある体躯。乱れた髪が影を落とす切れ長の瞳の奥に、珍しく、強い感情の気配がある。
 「きらいな曲なんだ。」
 無表情に近い顔で、西脇はそんなことを言った。なんの、なのかはわからないが、どこか“告白”めいた口調だった。
 西脇は、紫乃の唇を軽くひとなでしてから、指を引いた。視線もそらし、さっきからサイドテーブルに置いてあったらしいグラスを手にとって、あおる。
 テーブルの上を確認して、紫乃は思わず目を見開いた。スコッチの瓶が乗っている。しかも、中身はもうほとんど残っていない。
 急激に、ひんやりとした不安が、紫乃のうちに湧いた。
 ───こんな西脇を見るのは、初めてだった。
 ふだんの西脇には、感情のムラというものがまるでない。いつでも冷静で、沈着で、徹頭徹尾マイペース。
 スケーティングに関することで意見が衝突し、結果として多少重い雰囲気になる、ということはあっても、わけもなく不機嫌だったり、感情的だったりしたことなど、一度もない。
 だが今の西脇は、そういう状態であるように見える。
 表情はなくても───感じる。
 西脇をとりまく、痛いほど感情的な空気を。

 (後悔、してるんですか・・・?)
 自分とこうなったことを?

 いたずらな悲観には陥りたくない。だが、初めての抱擁の直後にこんな様子を見せられたら、誰だって不安になる。
 何を言えばいいのかわからなくて、けれど、込み上げてくる不安を適当に誤魔化せるほど器用でもなくて、紫乃はただじっと、西脇を見つめた。
 と、その視線の先で、西脇が唐突に苦笑した。
 張り詰めていた空気が、少しゆるむ。
 西脇は氷だけになったグラスをテーブルに戻してから、再び紫乃の髪に触れた。
 額をかすめたその指は、グラスの温度の名残りだろう、ひんやりとしていた。
 「ごめん。酔ってる。」
 西脇の言葉に、紫乃は戸惑った。
 酔っている、のはわかる。普通、酔うだろう。肴もなしに、しかもロックで、スコッチを丸ごと一本、一人であければ。
 だがいったい、
 「なぜ・・・?」
 問いを込めた紫乃の瞳、その目もとに、西脇はそっと身を屈めて、触れるだけのキスをした。
 「紫乃が、この曲ですべってるのを見たことがある。」
 直接問いには答えず、淡々とした調子で、西脇は言った。
 「似合ってたよ。とても。」

 ───憶えている。
 確かに紫乃は、この曲ですべったことがあった。
 西脇と組む直前のことだ。

 この曲でさる国際大会にエントリーしようとして、プログラムを煮詰めていたときに───当時のパートナーに、逃げられた。
 『悪いけど、もうつきあいきれない。』
 彼はそう言った。投げやりさを隠さない、疲れ切ってうんざりした口調だった。
 『あんたのレベルが高いのは、もうよくわかったから。だから遠慮なく、あんたに相応しい相手を捜して、そっちと組んでくれ。俺は降りるよ。あんたにふりまわされて、みじめな思いをするのはもうたくさんだ。』
 別段悪いパートナーではなかった、と紫乃は思う。それどころか、今にして思えば、悪いのはむしろ自分の方だったのだろう、と。
 スケーティングに関して、紫乃は常に完璧主義を自負してきた。自分に厳しい分、パートナーにも同じ厳しさを求めた。
 もちろん、パワーや反射神経、体形の問題など、努力だけではすぐにはどうにもならないことがあるのは理解していた。だから、パートナーが限界まで努力して、それでもなお“できない”部分に関しては、自分ができうるかぎり補うよう、力をつくした。
 要求したのは、彼なら出来る、と判断したことだけだった。出来ると思ったからこそ、要求した。そうすることで紫乃は彼に信頼を伝えているつもりだった・・・。

 あのころの自分は強硬すぎたのだと、今では思う。
 強硬で、そしてある意味では冷酷だった。
 『できるはずです。なんでやろうとしないんですか!』
 『弱音を吐いているだけじゃ、いつまでたっても無様なままですよ!』
 励ましているつもりの言葉が、きっと彼には、罵倒に聞こえていたにちがいない。実際、紫乃の中には、泣き言の多いパートナーへの苛立ちや侮蔑が、確かに存在していた。
 『あんたは一人ですべってる!』
 思い出す、悲鳴のような彼の声・・・。
 重心をできるだけ自分で引きうけたり、パートによってはホールドをシンプルなものにして、“ホールド”というより“接触”というレベルにしたり───彼の負担を減らすつもりでしていたことも、取りようによってはすべて彼への侮辱になる、ということが、今の紫乃になら、わかるのだけれども。

 (稚なかった・・・。)
 ダンスのなんたるかさえ、知らなかった。つい昨日、世界選手権のリンクの上でそれを感じとるまでは、自分が選んだ競技の本質さえまるでわかっていない、稚拙で未熟なスケーターだった。
 もし仮に、今の自分が彼と組んだとしたら、少しは良い関係を築けるだろうか。

 だが、それは無意味な仮想だった。
 なぜなら、紫乃にはもう、“パートナー”はこの世にたった一人しか存在しないから。
 きっと西脇でなければ、自分は今の自分にはなれなかった。きっと、否、絶対に、この指以外の指が自分を“蕩かす”ことはできなかっただろうし、それはこれからも変わらないだろう。

 ───西脇だった、から。

 自分は変われたのだと、思う。
 甘いような、それでいて息苦しいようなうずきに襲われて、紫乃は無意識に、ふかいまばたきをした。
 「転調のあとの、スローテンポのフレーズ。」
 長い沈黙のあとで、再び西脇が言葉を紡いだ。ひっそりとした、半ば一人言のような声だった。
 「単純なランステップから、ハーフターンをエッジの切り返しでつないで、長いスパイラルに入る・・・。」
 紫乃の髪をもてあそんでいた指が、かすかに、リズムを取る仕種をした。
 西脇が語っているのは、件の曲で、紫乃がかつてのパートナーとすべっていたプログラムだった。
 「あれを見て、キレた。」
 「キレた・・・?」
 言葉自体は、今時、さして珍しいものではない。だが、それが西脇の口から出たという事実が、紫乃に強い衝撃を与えた。
 「うん。」
 妙に素直な仕種で、西脇はうなづいた。どうやら自己申告の通り、かなり酔っているらしい。そのわりには、顔色も発音もまったく変わらないところが、実に西脇らしいのだが。
 「あいつ、紫乃の腰をホールドしてるのに、全然役に立ってなかった。紫乃は、エッジを斜めに入れて、ほとんど一人でバランスを取ってただろ?」
 「ええ。でも、あれは・・・。」

 仕方がなかったのだ。決裂前には、二人の関係の険悪さは、どん底のさらに底を抜いていた。気を許せないパートナーに重心をかけることなど───もっと端的に言えば、そういう相手に身を預けることなど、とうてい不可能だ。
 怖くて、できない。
 それはもう、ほとんど本能的な反応だった。
 フィギュアスケートは、傍で見るよりはるかに危険なスポーツである。たとえスローな曲であっても、滑走は基本的にハイスピード。転倒すれば、下はかたい氷。ほんの少し足が絡んだだけで、大けがをする。
 それどころか、単純なケアレスミスが原因で死亡事故が起こる可能性さえ、十分にあるのだ。

 「おまけに、リフトをしくじって姿勢が崩れた時、手を離した。」
 西脇の口調はあいかわらず淡々としていたが、いつしかその声の奥に、刃物のような気配が混じり込んでいた。
 「あれは犯罪だ。」
 「そんな・・・大げさな・・・。」
 「どこが?」
 正面から見据えられて、紫乃は息を呑んだ。
 目尻のきれあがった、シャープな造作の双眸。いつもは飄々としているせいであまり意識しないが、こうして対峙すると、こわいような瞳だ。
 「・・・ごめん。」
 再度謝られて、紫乃は混乱した。
 話の脈絡が見えない。───本当に、芯から、酔ってる・・・?
 「今更、くだらないくりごとだな。」
 言って、西脇は、ずっと指にからめていた紫乃の髪を、さらりと解き放った。
 「抱いたから。」
 西脇の指が、今度は頬に触れてくる。
 肌の感触を味わうように、優しく、ゆっくりと、撫でおろす。
 「紫乃の全部に触れたから───タガが外れて、忘れたフリしてたことが全部わきだしてきて、収拾がつかなくなった。」
 「西脇さん・・・?」
 西脇の手が片方、紫乃の頬の傍ら、シーツの上に置かれる。それから、もう片方の手は、反対側に。
 紫乃の視界の中央に、西脇の姿があった。
 背後には、ホテルの高い天井・・・ルームランプのあかりが西脇の体に遮られて、周囲が暗い。
 「俺、あの時、生まれて初めて逆上したんだ。一秒で決めたよ。あいつには、二度と紫乃を触らせない、って。」 
 そっと唇を寄せられて、紫乃は思わず、顔を逸らした。
 鼓動が、痛いほどに速かった。
 怖い───のとは、少し、違う。だが、似ている。
 西脇の、見たこともないような、激しい視線。
 表情も声も静かなだけに、よけいに圧倒されてしまう。
 「・・・俺なら、紫乃にあんなターンはさせない。もっと腰を引き付けて、重心は俺の右脚・・・紫乃の左脚は、氷に触れてるだけにして、抱きしめるみたいにして、まわる。」
 西脇の呼吸が、耳もとに触れた。

 熱い。

 その熱は多分、アルコールのせいだけではない・・・。
 「リフトだって、もっと深くやる。腰まで入れて、背中は膝で支えて、手はうなじ。」
 台詞の合間に、耳たぶにキスをされた。
 びくん、と体が反応する。
 紫乃は思わず、きつく目を閉じた。
 くす、と小さな笑い声が聞こえた。
 「要するに、妬いてるんだ。ほんとはあいつだけじゃない。紫乃に触れたヤツ全部に妬いてる。」
 西脇の腕の中に閉じ込められた状態で、紫乃はなぜともなく身を竦めた。
 「直接会って話す前から、紫乃のこと、見てた。ずっと、紫乃が欲しかった。どうしても、絶対、欲しかったから、失敗しないように、逃げられないように、時間をかけて近づいて・・・。」
 身じろぎしようとした紫乃の体を、西脇は、自分の全身を使ってやんわりと拘束した。
 「紫乃がパートナーのことで苦しんでるのだって、利用した。紫乃が俺のこと・・・想ってくれてるのに気づいてからも、もっと確実に、もっと引き付けてからって、わざと知らんふりしてた。」
 「西脇さん・・・。」
 「これからだって、俺はきっとなんでもやる。俺、憶病だし、卑怯だから。紫乃をこうして・・・ここに・・・留めるためなら、なんでも。」
 強い腕が、紫乃を抱きしめる。
 包みこまれて、身動きが取れない。
 なんという激しさだろう。
 知らなかった。
 ずっと、こんなにも狂おしく、求められていたなんて・・・。
 「これで、全部白状したよ。もう隠し事はない。」
 触れ合った胸から西脇の鼓動が伝わってきていることに、その時ふいに、紫乃は気づいた。
 それは、紫乃自身の鼓動と同じくらい、速かった。
 まるで、フリーの演技を追えた直後のような速さだ。
 「俺が怖い? 紫乃。」
 静かな問いかけ。声だけ聞いていれば、いつもと変わらないように聞こえる。けれど、真実は決してそうではないことを、素肌ごしのビートが紫乃に教えてくれていた。
 「今なら、逃げられるよ。俺、べろべろに酔ってるし・・・だから、今なら、追わない。」
 ───寝乱れたシーツの上で、縋り付くように抱きしめられて。
 うなじに顔を埋められて、耳もとに、深い声で、熱い言葉をささやかれて。 呼吸に混じる、ごくごくかすかなふるえと、鼓動の速さを肌で感じて。
 紫乃は、唇を噛んだ。
 そうしなければ、嗚咽がこぼれてしまいそうだった。
 『俺が怖い?』
 確かに、自分はおびえている。
 西脇が初めて見せた生々しい感情の激しさに、圧倒されている。
 だが、どれほど恐怖に似ていても、その感覚は、恐怖ではない。
 仮に恐怖があるとしたら、それは西脇に対するものではなく、自分自身に対するものだろう。
 激情───自らのうちで焔のように胸を焼く、甘い、苦しい、すべてをのみこんでしまいそうな感情への、おそれ。
 「そんな、こと・・・。」
 震えて思い通りにならない声で、懸命に、紫乃は言葉を紡いだ。
 「絶対に、逃げてなんか、あげません。私だって・・・ずっと、あなたを、追ってた・・・。」
 腕を上げて、西脇の背中を抱く。かたい筋肉の感触が、指先に、掌に、触れる。西脇のからだからは、アルコールと、そしてほのかなシャワーコロンのにおいがした。
 「明日になって、酔ってて何も憶えてない、なんて言っても、受け付けませんからね。欲しいって・・・私を欲しいって・・・ずっとこうして、捕まえててくれるって・・・約束・・・。」
 途中で、文脈が支離滅裂になってしまう。
 想いがあふれすぎて、コントロールがきかない。
 「どんな嘘だって、策略だって、使っていいです。でも、今夜のことだけは・・・嘘に、しないで・・・。」
 「うん。」
 「私も・・・あなたが欲しかった・・・。」
 告げると、紫乃を抱きしめている西脇の腕が、苦しいほどに強くなった。
 「私だって、独占欲でドロドロだったんです・・・!」
 「うん・・・うん、紫乃、知ってる・・・。ごめん。」
 言葉が終わるか終わらないかのうちに、紫乃の上に、くちづけが降ってきた。
 額に、眉に、まぶたに、頬に。
 鼻粱をなぞり、まつげを愛撫し───。
 霧雨が肌を包むように、淡いキスをくり返す。
 やがて西脇は、唇がふれあいそうな距離で、低く問うた。
 「俺の紫乃、って・・・思っても、いい?」
 真摯な声に、薄く目を開けて、紫乃は西脇の瞳をのぞきこんだ。そこに誓約を求める少年のような情感を見出して、紫乃は、花が開くような微笑とともに、はっきりとうなづいてみせた。
 「・・・捕まえた。」
 西脇は宣言した。
 「離さない。」
 「はい・・・。」
 ───それは二人にとって、
 教会での宣誓よりも厳かな、誓いの夜だった。


                ***


 「あれ? なんででしょう。手が届かない・・・。」
 “デジタルステップ”と評されるほどに正確なステップのあと、軽くターンを決めたところで、氷上の“ドクター”は困惑顔を西脇に向けた。
 西脇は、リンクサイドのガードウォールに肘をついて、そんなパートナーの様子を眺めている。
 (紫乃は、困った顔が、すごくイイ。)
 いつも、西脇はそう思う。だからついからかってしまうのだが、もちろんそのことは、本人には秘密だ。

 選手権最終日から、一夜が明けて。
 エキジビジョンのための練習に、二人は会場近くのリンクを訪れた。
 周囲では、このリンクをホームにしているフィギュアスケーターの卵たちが、各々自分の練習をこなしながらも、興味津々の様子でこちらをうかがっている。
 確かに、珍しい光景ではあるだろう。アイスダンスのペアの片割れが、一人でエキシビジョンの練習をしている、というのは。
 「もう一度やってみます。」
 「ああ。」
 西脇も一応スケート靴を履いてはいるのだが、ごく基本的なウォームアップをしただけで、あとはほとんどすべっていない。
 理由は、二日酔い───ということに、なっている。本当は、頭痛も目眩も吐き気も、まったくないのだけれども。
 “無茶しないでください”と照れ隠しの怒った顔で言い募る紫乃がかわいくて、
 (せっかく心配してくれてるんだから、期待に応えないと。)
 そんな不埒な気分で、西脇はサボタージュを決め込んでいた。
 最終的には、“休んでいたおかげでずいぶんよくなったよ”とかなんとか言って一緒に仕上げをするつもりだが、それまではこうして、夕べ抱きしめたばかりの恋人の姿を、思う存分堪能するのも悪くない。

 リンクの反対側から、紫乃が近づいてくるのが見える。
 スピーディーに、小気味よく動く、銀色のエッジ。本来は二人ですべるダンスのプログラムだから、ホールドのかたちに手を伸ばしているのが、まるでバレエのポ−ズのように見えて、優美だ。
 紫乃には、リズムのわずかな“ため”の時に、少しだけ小首をかしげるクセがある。髪がさらりと流れて、そのまま次の踏み込みで後ろになびいて、白いうなじがあらわになる。
 オープンポジションで片手をあげるときには、フリーの方の手首を軽く折る。これも、本人は気づいていないクセだ。特有の角度と指先のしなりが、とても美しい。
 一連のステップが終わったところで、軽やかなターン。
 西脇がいれば、その腕に腰を預けるところ・・・。
 だがそこで、紫乃はまた、困った表情で立ちすくんだ。
 「変だな。計算はあってるのに。」
 つぶやいて、眉をしかめる。紫乃は、リンクの端に立ち止まったまま、指を小刻みに揺らし始めた。ああしてカウントをとり、頭の中でステップの確認をしているのだろう。
 西脇は微笑を浮かべて、そんな姿を見守っていた。

 「鼻の下、のびてますよ。」
 と、ふいに、すぐ傍らで声がした。
 「うらやましいだろ? 独り者。」
 視線も向けずに、平然と応じてやる。
 隣の男───今大会、シングルで三位を獲得したアレク・サカモトは、西脇の台詞に、憮然とした様子でため息を吐き出した。
 「はいはい。かないませんよ、西脇さんには。・・・ところで、あなたに限ってまさかとは思うけど、どっか悪具合でも悪いんですか? ドクターを一人ですべらせとくなんて。」
 多少ひねくれた表現ではあるが、アレクなりに、心配してくれているのである。それがわかっているので、西脇は正直に───ただしこちらもややひねくれた表現で、答えを返した。
 「ドクターストップがかかってるんだよ。二日酔いでね。」
 「・・・二日酔い?」
 とんでもなく不気味な、あるいはきわめてシュールな単語でも耳にしたかのように、アレクは半歩身を引いた。
 「西脇さんが?」
 「そう。」
 アレクと西脇は、シングル時代に、何度か一緒に飲んだことがある。だからアレクは、西脇の尋常でない酒量を知っていた。
 「ナニ飲んだんですか?」
 「スコッチを一本。」
 「それだけ?」
 「それだけ。」
 たちまちアレクの顔に、いかにもウロンげな表情が浮かんだ。
 まず、しげしげと西脇の顔を眺め、それから視線を動かして、リンクの上の紫乃を見やる。
 やがておもむろに、アレクは言った。
 「・・・詐欺師。」
 「なんとでも。」
 西脇の悠然とした態度に、アレクは、今度は諦めのため息を吐いた。
 氷上では、最近みるみる艶やかになったと評判の“蒼氷の麗人”が、ステップの細部を、ひとつひとつ慎重に確認している。
 (西脇さん、性格は悪いけど、シュミはいいんだよなー。)
 つくづく、アレクはそう思った。
 「キレーなステップですねえ。エキシビジョン、なんの曲ですべるんですか?」
 問うと、西脇は、古いスタンダードジャズのタイトルを口にした。
 「ポルカのリズムと月の光。」  
 「へえ・・・。それはまた、えらく意味深な選曲じゃないですか。」

 ───アレクは、かつて一度だけ、西脇が“逆上”したのを見たことがあった。と言っても別に、表立って取り乱したわけでも、大騒ぎをしたわけでもない。
 ただ、完璧な無表情で立ちつくす西脇の周囲で、バリバリと音がしそうなくらい、空気が凍りついていただけである。

 ともあれ、その時に流れていた曲が、“ポルカのリズムと月の光”だった。 以後ずっと、ジャズ好きの西脇が、この曲だけは“きらいだ”と明言してはばからない。
 「きらいだって、言ってませんでしたっけ?」
 「せっかくの名曲をくだらない理由で敬遠し続けるのは、もったいないと気づいたのさ。」
 妙に神妙な表情で、西脇は説明した。アレクの顔に、先刻よりさらに二割ほどウロンさ増量の表情が浮かんだ。
 「前向きですね。」
 「いいことだろ?」
 「・・・・。」
 信じられない、と思ってしまうのは、この場合、決してアレクのせいではないだろう。
 アレクが何かツッコミを入れようと口を開きかけたとき、絶妙のタイミングで、西脇はリンクの紫乃に声をかけた。
 「ドクター!」
 「はい?」
 「計算、あった?」
 「それが・・・。」
 「じゃ、ちょっと一緒に流してみようか。休んだおかげで、ずいぶん具合もよくなったし。」
 かん、こん、と軽い音を立てて、西脇はエッジカバーを“脱いだ”。手を使って外すのではなく、カバーの端を椅子や床にぶつけて、器用に脱いでしまうのだ。アレク自身も時々やるが、動作のスムースさでは西脇に一歩譲る。ちなみに豪快さでは、シングル二位の岩瀬に三歩ほど譲る。昨日も岩瀬は、あやうくエッジで床を彫りそうになって、ゴールドメダリストの石川に、まるで子供のように叱られていた・・・。

 アレクが微笑ましい回想に浸っているうちに、西脇はリンクに出てパートナーと合流していた。
 互いに寄り添うようにして何事か打ち合わせてから、体を正対させて進行方向に顔を向け、ダンスのもっとも基本的なポジションをとる。
 すっと前方に伸ばされた西脇の手に、紫乃が、信頼しきった柔らかな動きで自らの掌を重ねるのが、アレクの位置からでもはっきりと見て取れた。
 (立ってるだけであのエレガンスだもんねえ。そりゃ、プライドガチガチの名門出身ペアも、ジェラシー燃えるよね。)

 ・・・ダンスは、フィギュアのなかでもっとも“貴族的”な競技だ。それはつまり、保守的だということでもある。
 フィギュア界全体にいまだにそういう傾向があるのだが、ダンスは特に、有色人種の選手に対する風当たりが強い。そんな中、この二人が世界のトップクラスへとかけのぼったのは、実はただごとではない“事件”なのだ。
 (あの“ミスター・ブラックタイ”が、よくもまあ、あれだけ完璧にナイト役をこなしてるよなあ。そんだけホンキってことなんだろうけど、昔のあの人からは想像もつかない姿だね。)
 シングルですべっていた頃、西脇には“ミスター・ブラックタイ”というニックネームがあった。
 それは、西脇がしばしばフォーマルスーツを模した衣装で競技に臨んでいたことからついた異名だったが、もうひとつ、別の意味も隠されている。
 英語で“タイを外さない男”と言えば、“恋愛に対して非常に冷淡な男”という意味だ。実際にどうなのかはさておき、当時の西脇にそういうイメージがあったのは事実である。

 それが今では───。
 (あ〜あ、ラブラブなんだから、もう。)
 見る者が見れば、西脇のリードがどれほど丁寧で紳士的か、一目でわかる。常にパートナーよりコンマ一秒早くポジションを取る手、繊細な重心移動。ターンの時の腰の抱きかたなんて、そのまま引き寄せてキスしないのがいっそ不思議なくらいだ。
 微妙な間合で紫乃が小首をかしげると、その仕種に合わせて、西脇は瞳を覗き込むようにする。視線が重なる。次の一歩で紫乃の髪がなびき、ふわりとあらわになったうなじに、西脇の手がそっとそえられる。
 なんというか───触れるか触れないかのもどかしい距離感が、下手なからみより何倍も色っぽい。真似ようとして真似のできるものではないだけに、その独特のノーブルな色香は、これからこのペアの大きな武器になっていくことだろう。
 (一世を風靡する、ってなヤツかもね。・・・負けてらんないな。)

 紫乃が、天へ向かって高く手を差し伸べる。しなるその指先に、西脇の指が絡む。腕で作られたアーチの下で、紫乃が軽やかにまわる。
 抱きとめて、ステップ。
 素早くエッジを交差させ、氷上に複雑な航跡を描き───。
 「ここです。」
 「ああ、なるほど。」
 最後の最後、ゆるやかなハーフターンのあとのフィニッシュでリズムが狂った。紫乃の手が、一歩先んじている西脇の手に届いていない。
 「ハーフターンが遅いんだ。」
 穏やかな、甘いと言ってもいいような口調で、西脇がそう告げるのが聞こえた。
 「え? でも、いつものテンポでまわってますよ?」
 「あのハーフターン、普通よりちょっとループが大きいだろ? メロディにはそれで合うけど、あの半端な大きさは───一人でやると、ターンとスパイラルの中間になっちまって、エッジが重くなるんだ。それで、結果的にフィニッシュステップに入るタイミングが遅れるんだよ。」
 「あ・・・。」
 西脇の説明に、なるほど、とアレクは思った。
 今まで紫乃は、二人でやるプログラムを一人でやっていた。だから、二人でやるときの調子で計算すると、どうしてもタイミングがあわなかったのだ。
 (あれ? だけど・・・。)
 納得しかけて、けれどそこで、アレクは妙なことに気がついた。
 (一人でやってるのが問題だったんなら、今二人でやったのに、なんでドクターは同じように遅れたんだ?)
 明らかにオカシイ。
 紫乃も、訝しげな表情で首をひねっている。
 「あのターンは、半分リフトみたいなつもりで、体重を俺に預ければいいんだ。そしたら、次の一歩をもっと楽に、早く踏み込める。もう一回やってみよう。」

 二人は、アレクから見てちょうどリンクの対岸にあたる位置まで下がると、さっきと同じステップを始めた。
 優雅で、それでいて清潔感が漂うほど歯切れの良いエッジワーク。
 今回は西脇が、カウントをとっている。
 「一、二、三、踏み込んでキック・・・スウィング、クロス・・・紫乃、もっと反って!」
 鋭い指示を出した西脇の手は、幾分過剰なくらいしっかりと、パートナーの背中を抱いている。
 それを見てようやく、アレクは事の真相に思い至った。
 (なんて人だよ、西脇さん・・・。)
 軽やかな回転からつなぎのステップを経て、問題のハーフターンへ。
 西脇が、絶妙なカーブを描きながら紫乃の体を引き寄せて、二人分の重心を自分のエッジに乗せる。
 ふわり、とまるで重力から開放されたように、紫乃はターンを抜けた。
 一歩、二歩・・・解き放たれた紫乃に、西脇が追いつく。最後に紫乃が伸ばした手は、吸い込まれるように西脇の手の中に収まった。

 「できた!」

 紫乃が、邪気のない歓声を上げた。
 「カンタンだろ?」
 微笑んで、西脇がうなづく。

 思わずアレクは、天井を見上げた。
 ・・・確かに、カンタンなはずだ。今の二人のレベルからすれば、しごく単純なステップなのだから。その“カンタンな”ことを紫乃がなかなかうまくやれなかったのは───過去のクセが残っていたからだ。

 紫乃はかつて、“ポルカのリズムと月の光”で、まったく信頼できないパートナーと一緒にすべっていた。
 スケーターの神経は、体で憶えた動きに忠実だ。
 だから紫乃は、この曲を念頭においてステップを踏むとき、おそらくは無意識のうちに、昔と同じように“一人”で、まったくパートナーをあてにせずにすべってしまっていたにちがいない───たとえ西脇が、手を取ってくれていても。

 そして西脇は、自分のホールドの確実さを実感させることによって、そんな紫乃の“クセ”を消し去った。言ってみれば彼は、自分とのパートナーシップを、紫乃の身体に直接浸透させたことになる。

 「この調子で、一曲分流してみようか、ドクター。」
 「そうですね。」
 「んー、ジャズなんだから、もっと寄った方がいいな。」
 「・・・これくらい?」
 「うん。腰だからね、ジャズは。」
 「じゃ、二回目のリンクエンドで、首に捕まっていいですか? あそこで腰を落とすと、フリーハンドじゃちょっとバランスが・・・。」
 「大歓迎。あそこフリーハンドでやられたら、リーダーの俺は立つ瀬がないよ」
 冗談めかした西脇の台詞に、紫乃は笑った。華やいだ笑顔だった。それはもう、うっとりしてしまうほど。
 (ドクター、ちょっとカワイソウかも。)
 複雑な表情で、アレクはそんなことを考えた。

 ───パートナーの体から“過去の男”の“痕跡”を完璧に消去するために・・・そして、自分のリズムに染め変えるために、敢えて因縁の曲を使う男。しかもそれを、当のパートナーには微塵も悟らせずにやっているあたりが、なんともコワイ。
 (クールな顔して、すっごい独占欲・・・。)
 あんな男に本気で惚れられたら、幸福なのか災難なのか、ちょっと判断が難しいところだ。

 二人が、ポジションをとって演技に入る。
 ポルカのリズムと月の光。
 甘くて、情事のあとの肌のように暖かくて、少しだけメロウ。
 練習用のリンクにはなんの音楽も流れていなかったが、今大会のアイスダンス・ゴールドメダルペアの耳には、きっとそのメロディが聞こえているのだろう。 流しなので、ステップはともかく“踊り”の部分はルーズなものだったが、それでも、典雅で音楽的な二人のスケーティングは、周囲の深いため息を誘った。
 「ステキ・・・いいなあ・・・。」
 うっとりとそうつぶやく少女の声が、アレクの耳に届く。
 ダンス専用の薄いエッジが、まるで銀色の魚のように、氷の上でしなやかに跳ねているのが見える。
 彼らのスケーティングは、ほとんど氷を傷つけない。音のしない、なめらかなすべりだ。
 「ここのレッグ、少し浅くしますか?」
 「いいね。で、次をこう・・・。」
 見つめあって、会話を交わす。
 その間も、足は奇麗にステップを踏んでいる。
 紫乃の髪が西脇の頬に触れる。
 時折、西脇が腕の演技を留守にして、その髪に指をからめる。

 (ま、いっか。シアワセそうだから。)
 アレクはそう結論づけて、自分もリンクに出るために柔軟を始めた。
 アテられっぱなしはくやしいので、あとで一回、ドクターに
 “シャル・ウィ・ダンス?”
 してみようっと───などと、いたずらなたくらみを巡らせながら。


                              FIN


きゃわぁぁぁぁぁぁい♪

美夜深眠さまより1000と2000に続き、5000hitのお祝いSSをいただきました!
今度も西橋カップルで、前回の続編ですぅ〜(*^v^*)

今回はほんのりいろっぽいですね(*^^*)

ありがとうございますぅっっvvv











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