NO KISS,NO CRY

作/美夜深眠


                    ≪後編≫


「ドクター。」
 西脇の指が、また紫乃の髪に触れた。
 くすぐったい。頬が上気するのがわかって、それをごまかすために、思わず眉をしかめてしまう。・・・でも、本当は、嬉しい。

 西脇の長くて形の良い指の間から、さらさらと髪がこぼれ落ちる。
 その余韻が消えぬうちに、西脇は突然、今度は紫乃の唇に触れた。
 ゆるく曲げた人差し指の背で、かすめるように唇をなでて。
 その指を、自分のくちもとにもっていく。
 そして西脇は、自らの指に軽いキスをした。

 紫乃は“頭が真っ白になる”という状態を、生まれて初めて体験した。
 何が起こったかわからない。
 とにかく頭が混乱して、わかるのはただ、体中がひどく熱い、ということだけだった。

 「ドクターとすべりたかった。」
 静かな声で、西脇はそう告げた。
 「だから、ダンスに転向した。ずっと一緒にすべろう、ドクター。俺よりドクターを奇麗にリードできる奴なんて、絶対いないよ。」
 声が出ない。どういう反応をすればいいのか、判断がつかない。
 なんのつもりでこんなことを言っているのだろう、彼は。もうすぐ最後の演技が始まるという、こんなときに。
 「な、なんで、そんな・・・突然・・・。」
 ああ、私もだ。なにを言っているのだろう。
 「ドクター、指が真っ白だ。」
 いつもと変わらぬ落ち着いた調子で、西脇は答えた。
 「チャンピオンに習って、てっとりばやくキスしてあっためようかとも思ったけど、俺、憶病だから。───それに、もったいないし。」
 「キ、キス?・・・もったいない・・・?」
 「キスしてるときのドクターの顔、人に見せたくない。だから、とりあえず告白してみることにした。」
 「とりあえず、って・・・。」
 「あったまった?」
 「・・・西脇さんっ!」

 紫乃の声に、二人の名前を読み上げるアナウンスの声が重なった。

 【タツミ・ニシワキ、シノ・ハシヅメ、ジャパン・・・。】

 わあっと、観客席から歓声が上がる。拍手をしているのは、日本人客ばかりではない。二人の人気は、既に欧州でもなかなかのものだ。

 ひとまず気を静めて、ゆっくりと、紫乃はリンクに踏み出した。
 当然ながら、傍らには西脇がいる。
 ちらりと視線を送ると、目が合った。
 「麻痺した手を、ホールドしたくなかったんだ。」
 期待に満ちた明るい歓声に混じって、西脇の声が聞こえた。
 「俺を感じてほしかった。二人ですべらなきゃ、ダンスじゃない。」

 リンクの中央に、西脇は立っていた。
 どことなく司祭服めいた詰襟の長衣、まっすぐな脚のラインを強調する、スリムなトラウザーズ。胸元の飾りボタンからハイカットのスケーティングシューズに至るまで、銀色のエッジ以外は、すべて黒一色だ。
 もう見慣れているはずなのに、それでもやはり、紫乃は目を奪われずにはいられなかった。

 やがて西脇は、典雅な動きで紫乃に手を伸ばした。まるで、青年将校が意中の貴婦人にダンスを申し込んでいるような仕種だった。

 「紫乃。」

 初めて、名を呼ばれた。
 それだけで、泣きたいような切なさがこみ上げてくる。

 「踊ろう。」
 「・・・はい。」

 差し伸べられた手に、そっと、自分の手を重ねた。
 西脇の手は、意外なほど暖かかった。
 かたくてなめらかな、肌の感触。
 握りかえしてくれる指の、骨格の確かさ。
 (ああ・・・西脇さんの、手だ・・・。)
 すうっと、緊張がとけていくのがわかった。
 もう、どこも冷たくない。

 潮が引くように、歓声が遠のいていく。
 しん、と静まり返った空間に、澄んだ弦楽器の音が響き始めた。
 ───バッハの音楽は、祈りの音楽だ。
 静かで、穏やかで、真摯で。
 早春の大地に降りそそぐ、銀色の慈雨のようなその甘やかな旋律を、ひとかけらの哀感がせつなく彩っている。
 二人が選んだ“アリア”は、アレンジを一切加えていない、オリジナルのものだった。メロディを奏でるバイオリンの高音が、ゆるやかに天へとのぼっていく。
 そのゆったりとしたリズムにのって、二人は優美なステップを刻んだ。
 西脇の瞳が、いつもよりほんの少しだけ、近くにある。
 紫乃は、それを見つめる。それだけ、を。
 複雑きわまりない高難度のステップが、けれどなぜか、今日はほとんど意識に上らなかった。
 考えなくても、体が動く。手が、足が、憶えている。
 かわりに意識を支配するのは、今自分の手を取っているパートナーの存在だった。

 (西脇さんが、見てる・・・。)

 彼はいつも、こんな風に自分を見つめていたのだろうか?
 だとしたら、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。こうやってちゃんと向き合えば、彼の瞳の奥にあるものが、必ず伝わってきたはずなのに。
 (あったかい・・・熱い・・・。)
 憶病だから、と西脇は言った。
 けれど、と紫乃は思う。
 けれど、本当に憶病だったのは、私の方だ。
 いつもかたくなで、意地ばかり張って、逃げていた。西脇からも、自分自身の思いからも、目を逸らし続けていた。
 真実を見据える強さがなくて───真実を伝える、勇気がなくて。

 ふわりとターンすると、紫乃の長い前髪が、西脇の頬を撫でた。
 西脇の唇に、ごくかすかな微笑が浮かんだ。
 紫乃は、自分の心臓が大きく跳ねたのを自覚した。
 『ドクターの髪、気持ちよくて・・・。』
 鼓動が早いのは、きっと苛酷なプログラムのせいばかりではないだろう。
 息があがりそうになって、つい、うっすらと唇をほどく。
 ちょうど、リフトの場面だった。
 西脇に背中を抱かれ、タイミングを合わせて後ろに倒れ込む。
 次の瞬間、白い、ゆったりとしたシャツに包まれた紫乃の上半身を、西脇の両腕が揺るぎない確かさで抱きとめた。
 そのままの姿勢で、なんのためらいもなく、カケラほどの恐怖もなく、紫乃は氷からエッジを離した。世界が逆転した。アリーナの高い天井を、紫乃は見下ろしていた。

 腰から太股へと、西脇の手が移動していくのを感じる。トラウザーズの生地ごしに、彼の掌の温度さえ伝わってくるようで、さざなみのような戦慄が背中に走る。

 こういう低いリフトは、一見地味だが、実は力と技術双方を要求される、非常に難度の高い技だ。
 西脇は、こういった隠し味的なリフトを好む。
 見た目にも華やかな、扇情的な“からみ技”をあまりとりいれたがらないのは、もしかしたら───キスを“もったいない”と言ったのと、おなじ理由なのだろうか。

 (自惚れても、いいんですか・・・?)
 体を起こすために互いの手首を捕らえあった一瞬、西脇が笑ったような気がした。
 (え・・・?)
 音の立たない優雅な着氷のあと、本来ならそのまま通常のランステップのホールドに戻るところを、西脇はアドリブで、もう一回転、ゆるやかなスピンを加えた。驚く紫乃の腰を、西脇の腕が少しだけ強引に抱き寄せる。

 再び間近で、視線が重なった。

 西脇の瞳は、確かに笑んでいた。表情はさしてかわらないのに、それはなぜか、ひどく甘い微笑だった。

 ターンして、ステップ。ターンして、ターンして、ステップ。
 触れ合って、離れて、手と手をからめて、身を寄せて。

 いつのまにか、紫乃の中からプログラムへのこだわりがぬけ落ちていた。
 舞踏会のワルツのように───あるいは、もっと親密なチークのように、かぎりなく抱擁に近い、けれど決して抱擁ではない、微妙な距離で向かい合う。そうしていると、触れ合う手から、腕から、腰や脚から、西脇の動きが直接伝わってくる。
 (右のハーフターン。)
 (エスパーダ。)
 (クイック。)
 大筋ではプログラムに従いながら、けれど二人の演技は、いまやほとんど即興だった。
 審査員など、もう目に入らなかった。時折おこるオーディエンスのどよめきも、遠い潮騒のように現実感がない。
 ただ、澄み切ったアリアだけが世界を満たしていた。アリアと、西脇の呼吸や体温、動き───二人で創る、ダンス、だけが。

 『二人ですべらなきゃ、ダンスじゃない。』
 そう言った西脇の言葉を、紫乃は思い出していた。
 『紫乃。』
 『踊ろう。』

 踊ろう───。

 (ああ、そうか・・・。)
 やっと、わかった。
 そう、紫乃は思った。

 これが、ダンスだ。

 ただ二人のスケーターが一緒にすべっているだけでは、どんなに呼吸があっていても、それはダンスではない。それはただ、シングルのスケーターが二人、プログラムに従ってすべっているに過ぎない。
 この交歓。
 どんな合図も、言葉も、カウントもいらない。
 音楽と互いの存在とが融合して生まれ出る、他の誰にも真似のできない、唯一無二のこの律動だけが、ダンス。
 自分はずっと、ここにたどりつきたかったのだ、と。
 痛いような幸福感とともに、ようやく、紫乃は理解した。

 アリアは、最後のリフレインにさしかかりつつあった。
 後ろに向かってクロスステップをふみながら、紫乃は西脇に微笑みかけた。
 そのまま、誘うように身を翻す。
 これはプログラム通りだ。
 西脇の腕が、紫乃を引き止める。
 踏み出そうとした紫乃の足首に、西脇の足首が絡む。
 絡みあったその足首を軸に、事実上宙に浮いた状態で、紫乃は鮮やかに回転した。
 くるりとまわって、その勢いで身を起こす。同時に足首を外して、まるで体重などないかのような動きで、西脇の腕の中に収まる。
 一瞬でもタイミングが狂えば転倒、悪くすれば骨折。
 だがおそらく、その事実に思い至った観客など皆無だろう。それほどに完璧な、あぶなげなどまったくない、優美で軽やかな動きだった。

 バイオリンの音が、少しづつとけていく。
 銀色に輝くリンクの上に、羽毛のように柔らかな静寂が訪れる。
 踊り始めたときと同じポーズで、二人はリンクの中央に立っていた。
 なんのケレンもない、一番ベーシックなホールドで、ただ互いを見つめ合うだけのラストシーン。
 コーチの堺がこのプログラムをつくったときには、あまりの地味さに、さすがの紫乃も抗議をしたものだった。だが今となっては、これ以上のラストなどありえないように思える。
 向かい合って、互いの瞳をのぞきこんで、手と手を重ねる。
 ダンスのすべてはそこから始まり、そこにたどり着くのだから。

 「やっと踊ってくれた。」
 そのポーズのままで、西脇が言った。
 「ずっと、こうしたかった。」
 「すみません。意地になってたんです。私の方こそ、憶病で・・・こわくて。」
 不思議なくらい、素直に言葉がこぼれおちた。
 「ずっと、一緒にすべって下さい、西脇さん。」
 演技を始める前にリンクサイドで西脇が言った言葉を、今度は紫乃が口にした。
 「すべるだけ?」
 すこしばかり人の悪い口調と表情で、西脇が問いかけてくる。
 淡い色に頬を染めながら、それでも紫乃は、きっぱりと首を振った。
 「いじわるですね。」
 「怖がりだから、言葉がほしいんだ。」
 「うそばっかり。」
 「ほんとだって。」

 ───そこまで会話を交わしたところで、遅ればせながら、二人はようやく異常事態に気がついた。
 音が、しない。
 とうの昔に演技は終わり、音楽もやんでいるというのに、拍手も歓声も、それどころかしわぶきひとつ聞こえてこない。
 「音が・・・。」
 「静かだな。」
 口々につぶやいて、二人はホールドを解いた。

 その途端、だった。
 どおっと、アリーナが揺れた。
 比喩ではない。現実に、エッジに震えが伝わってくるほど、はっきりと建物全体が揺れたのだ。
 スタンドから、花束が降ってくる。いくつもいくつも、とめどなく、とりどりの花が銀盤の上に降りそそぐ。
 なかば茫然と、紫乃はその情景を見つめた。
 奇妙な気分だった。
 自分はたった今まで、観客のことなど忘れていたのに。なのに今、かつて一度も聞いたことがないような爆発的な喝采が、自分たちに浴びせられている。
 なりやまぬ拍手、歓声、客席全体がうねっているような、熱狂的なスタンディングオベーション。
 「すごい人気だ。」
 他人事のように、西脇が言った。すぐとなりに居る西脇の声すら、ともすれば聞こえなくなりそうだ。
 「あなたへの拍手ですよ!」
 「・・・ドクター、一度ちゃんと鏡を見た方がいいぞ。」
 「なんの話です?」
 「いや。」

 花束の雨をくぐって、二人はキス・アンド・クライに向かった。
 氷からはなれ、エッジにカバーをかけて、用意された椅子に腰を下ろす。
 歓声はまだ鳴り響いていた。音量も、一向に下がる気配がない。
 アリーナの掲示板に、まず、技術点が表示された。5・8が一つに6点満点が二つ、あとはすべて5・9。技術のみの順位点は、これで一位だ。
 勝負は、芸術点───。

 「ドクター。」
 「はい?」
 呼びかけられて、紫乃は掲示板から隣のパートナーへと視線を移した。長い脚をややルーズに組んだ西脇が、少しこちらに身を寄せるようにして、まっすぐ紫乃を見つめている。
 「キス、する?」
 まじめな顔でそう問われて、紫乃は戸惑った。
 「え・・・?」
 「人前でキスしたくないっていうのは、俺のエゴだから。多分、紫乃につらい思いをさせてたんだと思う。」
 「西脇さん・・・。」
 知っていたのだ、この人は。

 キス・アンド・クライ。

 この場所でくちづけと抱擁をかわす他のペアに、自分が妬心に似た思いを抱いていたことを。
 「・・・“もったいない”んでしょう?」
 数秒の沈黙のあと、柔らかく笑んで、紫乃は言った。
 「私もそう思います。キスしてるときの西脇さんの顔を、世界ネットで放映するのは気がすすみません。」
 そっと手を伸ばして、西脇の手に触れる。そして、握りしめる。
 「一般公開は、このあたりまでで十分ですよ。」
 紫乃が断言すると、西脇は愉快そうに笑って、
 「賛成。」
 と言った。

 「採点にえらく時間がかかっとるな。」
 そのとき、背後で堺コーチがぼやく声が聞こえた。人の感情に聡いこのコーチは、どうやら今まで、存在を主張するのを遠慮してくれていたらしい。
 「コーチ。」
 二人同時に振り向いて、笑いかける。
 「多分、評価が極端に分かれすぎて調整に手間どっている、というところだろうな。まあ、わしとしては、ひよっこどもがようやくダンススケーターらしくなってくれただけで、今回は大満足だがね。」
 陽気な壮年のコーチは、眼鏡の奥の瞳を糸のようにして、二人の若い愛弟子を交互に眺めた。
 アリーナはいぜん、大歓声で沸騰している。
 審査員席の周囲で、メモを持ったスタッフたちが慌ただしく走りまわっているのが見える。
 二人はしばし顔を見合わせ、それから椅子に深く座り直して、リラックスした風情で結果を待った。



 【THE DANCE】
 西脇・橋爪ペアのアイスダンスは、後にそう呼ばれて、フィギュア界の輝かしい伝説のひとつになる。
 彼らにまつわる逸話は数多いが、その中でも特に有名なのが、“ノーキス、ノークライ”だ。
 彼らは決して、“キス・アンド・クライ”でキスをすることも、泣くこともなかった。
 その理由を、西脇巽は、インタビューに応えて次のように語っている。

 「大事なものはしまっておきたい。それだけです。」








                                   FIN


すてきぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!
もう二人の姿にうっとりです♪

実は、前作(基悠編)からのこのスケーター・シリーズは数年前GDの連載が再開された時
【これも警備隊の日常】の中で窓拭きしているDr.をかかえ降ろす西やんのコマを見た私が
当時TELで美夜さんに「これって、まるでアイス・ダンス・ペアーのリフトみたい♪」
って云ったのがきっかけで、パラレル妄想がひろがったんです(*^^*)

あの時は単に、おしゃべりだけで盛り上がっていただけなんですけれど
それを、こぉ〜んな上質な作品に仕上げて下さって
嬉しいですぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!(T―T)

美夜さぁ〜ん、本当にありがとうございましたぁぁぁぁ(*^▽^*)/











SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送