NO KISS,NO CRY

作/美夜深眠


                    ≪前編≫


 銀盤の上では、去年のアイスダンスのチャンピオンペアが素晴らしい演技を繰り広げている。

 曲は、有名なバッハのアリア。
 本来はバイオリンで奏でられるパートをコントラバスが演奏しているせいで、曲全体が、仄暗い哀愁と官能の彩りを帯びている。チャンピオンペアの滑りは、その音楽に相応しい、美麗で、少しだけ退廃的で、そして息が詰まるほど濃密なものだった。

 銀色のエッジが、光を弾きながら鮮やかに翻る。
視線が、腕が、炎のような深紅の衣装が、何度も何度も、激しく、深く、絡みあう。
 真っ白な女性の脚が、男性の腰を挟み込む。
 まるで絞め殺そうとしているような動きだ。
 離したくない・・・いっそ殺して独占したい・・・キスするためだけに男の首を切り落した、サロメのような情熱・・・。

 「こりゃ、きまったな。」
 背後で、テレビ局のスタッフらしい男性が、陶然とした溜め息とともにそうつぶやくのが聞こえた。
 「次の日本のペア、世界選手権は初参加だろ? なかなかスジは良かったんだけどね・・・。」
 「フリーがチャンピオンと同じ曲だなんて、運がないねえ。」
 こういう会話というものは、潜められていても、なぜかはっきりと耳に届くものだ。

 橋爪紫乃は、さっきからまるで感覚のない自分の指先を、なんとはなしに見下ろした。
 指は、白かった。
 もともと肌も白いのだが、そればかりではなく、すっかり血の気が失せてしまっている。触れればきっと冷たいのだろうが、自分自身には、冷たいという感覚さえすでになかった。
 本当に緊張しているときは、いつもそうだ。
 ふと、遠い記憶の断片が、脳裏をよぎる。

 ───初めて公式戦に参加したときもそうだった。もう顔もよく思い出せない当時のパートナーは、“きみは緊張なんてしないんだろうな”と言いながら、歯をカタカタ言わせていたっけ。
 本当はあの時、紫乃も緊張していた。だがそれを表明したところで、緊張が解消するわけでも、より良い演技ができるわけでもないから、黙っていた。
 紫乃はその試合を、ノーミスで滑りきった。
 指先の感覚は、最後までついに戻らなかった。
 だから紫乃は、記念すべきデビュー試合の時のパートナーの手の感触を、まったく憶えていない。そのパートナーに関して記憶していることと言えば、キス・アンド・クライで派手に抱きつかれたことと、それがどうしようもなく煩わしかったことだけだ・・・。

 チャンピオンペアの演技は、クライマックスに差しかかっていた。
 変則的で複雑なリフト。どこでどうホールドしているのか、“同業者”である紫乃にさえ、遠目ではよくわからない。
 女性の長い赤毛が───衣装に合わせて染めてあるのだ。このペアは、とにかく演出が徹底している───白い氷面をこする。
扇情的にそり返った喉もとに、男性が吸血鬼のような接吻をする。
 ・・・“振りつけ”ではなく、本当に噛みついている。
 凄まじい気迫、だった。

 「色っぽいな。」
 と、すぐ側で、まったく力みのない落ち着いた声がそう言った。
 視線をずらして、傍らに立つ現在のパートナーを見上げる。

 西脇巽。

 去年まで、シングルを滑っていた男だ。しかも、国際大会のメダルをいくつも取っている。
 日本人離れした九頭身の長身、いくらかひんやりとした印象のある、端正な顔立ち。そのスケーティングもルックスに準じ、端正で精緻で隙がなく、それでいて大胆だ。
 あたりまえのような顔で四回転を飛んでいたこの男が、なぜ突然ダンスに転向したのか、紫乃は知らない。

 ある日突然、西脇は紫乃に言った。
 『ドクター、俺と組まない?』
 あなたはシングルでしょう、と応じると、彼は笑って、
 『ダンスもできるよ。』
 ───考えてみれば、とんでもない台詞である。
 そのあまりにも気軽な言い様に、ダンスを馬鹿にされたようで、腹が立った。だから、このスカシた男の鼻っ柱をへし折ってやるつもりで、ペアを組むのを承諾した。
 ちょうど前のパートナーに、“つきあいきれない”と言って逃げ出された直後だったこともある。
 生粋のダンス選手でも簡単にはついてこられない自分のステップに、“素人”が合わせられるものなら合わせてみろ───最初は、そういう気分だったのだ。

 それが、今ではこうして肩を並べ、世界選手権のリンクサイドに立っている。
 点数の上では十分金メダルをねらえる位置に、二人はいた。
 「緊張感のない人ですね、あいかわらず。」
 冷ややかな口調で、紫乃は言った。否、冷ややかな口調のつもりで発したのだが、どういうわけかその台詞は、紫乃自身の耳にさえ“拗ねたような口調”に聞こえた。

 最近、こういうことがよくある。
 なにやら悔しくて、とっさに紫乃はうつむいた。
 「緊張してるよ。」
 あっさりと、西脇はそう答えた。
 言葉に次いで、西脇の指が、さらりと紫乃の髪をすくいとる。
 驚いて、紫乃は顔を上げた。
 「ドクターは?」
 問いかけてくる西脇の口端には、かすかな笑みが刻まれていた。見下ろしてくる視線が───優しい、と思うのは、錯覚だろうか。
 「してます。当然でしょう?」
 答えながら、“ああ、まただ”と紫乃は思った。
 いったいなぜ、こんな口調になってしまうのだろう。
 これではまるで、拗ねて甘えているみたいだ・・・。
 「もう少し、触ってもいい?」
 「え?」
 「ドクターの髪。気持ち良くて、落ち着く。」
 西脇の言葉に、一瞬、頬が熱くなった。
 そういうことを、そういう顔で───そういう、なんとも穏やかな瞳と表情で、言わないで欲しい。
 「ダメ?」
 「・・・どうぞ、ご自由に。ミスされるよりましですから。」
 恥ずかしくて、西脇の顔を正視し続けられなくて、だから憎まれ口をきいて、そっぽを向く。西脇の長い指が、その動きを追うようにして、紫乃の長い前髪をすくいとった。

 リンクでは、チャンピオンペアがフィニッシュを決めていた。
 最後の最後に、力技のリフトを連続で入れている。技術的にも体力的にも、さすが、と言うしかない。
 「完璧ですね。」
 思わず紫乃が呟くと、西脇は、紫乃の髪を指にからめたまま、
 「まあね。」
 とシンプルなあいづちをうった。

 会場が、熱狂的な拍手と歓声でわきかえる。
 数え切れないほどの花束が、銀盤の上に降りそそぐ。
 人気実力ともに世界ナンバーワンのカップルは、その華やかな世界の中央で、先刻までの演技そのままに、情熱的なキスを交わしていた。
 真っ白な氷、まばゆい白銀の照明、とりどりの花、そして、艶やかに互いを抱きあう紅蓮の色───。
 熱そうなキスだ、と、ふいに紫乃は思った。
 あんな風に抱擁をかわし、激しく接吻すれば、肌も血も、さぞや温度が上がることだろう。彼らの指は、冷え切って感覚を失うことなど、きっとないにちがいない。たとえどれほど強いプレッシャーを感じ、どれほど緊張したとしても。

 (なにを、馬鹿な・・・。) 

 さっきから、自分はひどく馬鹿げたことを考えている。
 自嘲の思いが、紫乃のうちに湧いた。
 緊張すると指先の感覚がなくなるのは、なにも今に始まったことではない。その状態のままでも、スケーティングにはなんの問題もない。それなのにあんなことを考えてしまったのは、やはり“甘えている”からだ。
 そう、自分は、いつのまにか甘えている。緊張しているか、と問われて、考えるより先につい本当のことを答えてしまうほど、気を許してしまっている───隣に立っている“パートナー”、何を考えているのか分からない、西脇巽という名の、このつかみどころのない男に。

 唇を噛んで、胸を刺す深い疼きとともに、紫乃はそれを認めた。
 ・・・本当は、とうの昔に気づいていた。
 彼がシングルをすべっていた時から、紫乃はしばしば、西脇に目を奪われていた。
 カテゴリーは違っても所属しているクラブは同じだったから、当時から、時々会話もかわしていた。ことさらに冷静な、スケーティングテニクニックの評論に徹した話しかしなかったのは、実はかえって意識していた証拠なのだと、今ならわかる。

 ───ペアを組んで初めての練習のとき、完璧なホールドをされてひどく戸惑ったことを、よく憶えている。西脇は、紫乃の身長も、腕の長さも、動きのくせも、すべて完全に把握していた。
 『器用なものですね。あなたなら誰とでも合わせられますよ。』
 刺のある口調でわざとそんな風に評したのは、喜んでいる自分が嫌だったからだ。
 嬉しいなどと、感じたくなかった。
 西脇のホールドの完璧さは、別段、紫乃に対する関心や理解を示すものではなかった。単に西脇は、驚異的な分析力と適応力の所有者なのだ。そのことを、それまでの数々の実例から───当時の西脇は、練習相手が不足しがちなペアのジャンパーにつきあって、スローイングまでこなしていた───紫乃は知っていた。

 つい先日の公式練習のときにも、西脇はその能力を発揮して見せた。かのチャンピオンペアの女性の方と、即席のペアを組んで滑ったのだ。
 『たまに違う相手と組むと、視野も感性も広がるし、なにより新鮮で良いでしょう?』
 そんな女王のお誘いに、西脇は気後れすることもなく、気軽に応じた。
 リンクを二周しただけで、二人のリズムは噛み合った。
 試合の前だから、当然、二人とも手の内は明かさない。すべったのはごくべーシックなステップの組合せだけだったが、それでも二人のスケーティングは、見る者の溜め息を誘うほどにみごとだった。
 『どうしよう、浮気したくなっちゃったわ。』
 すべったあと、彼女はそう言いながらコロコロと笑っていたが、その瞳の色に冗談以外の“なにか”を感じたのは、決して紫乃だけではなかったはずだ。
 取材に来ていた各国の記者たちは、このフォトジェニックきわまる即席ペアに向けて、こぞってカメラのフラッシュをたいた。“そのまま大会に出てもメダルが取れそうだね”などというジョークが、あちこちで飛びかっていた。
 『光栄です。』
 西脇は、にっこり笑ってそう返した。

 ───とても、腹が立った。

 西脇に、ではない。
 ほっそりとした女性の手を、優しく、丁寧にホールドしていた西脇の手、重ね合わされていた視線、次のステップを相談するために耳元に寄せられた唇・・・そんなものにいちいち動揺している自分が、どうしようもなく情けなかったのだ。
 西脇に他意がないことくらい、わかっている。
 プライドの高い女王のお誘いは、ことわるよりはかしこまって受けた方が、ことが穏便にすむ。それに、実際に触れ合ってすべれば、相手のコンディションを探ることだってできる。戦略的にみても、損にはならない。
 事実その夜、西脇はチャンピオンペアに対する鋭い読みを披露した。
 『あっちはリフトに重点をおいたプログラムでくると思う。』
 筋肉のつきかたが去年の大会とは違うから、と彼は言った。
 『曲は同じでも、ウチはステップが見せ場だから、テイストはまるでちがうよ。たいして問題はないと思うね。』
 西脇の予測は正確だった。それはつまり、かの美貌の女王に対しても、彼が冷静な観察者としての姿勢を崩さなかった、という証だ。だから、西脇のとった行動に感情を乱される必要など、まったくない。そのことを、紫乃の理性は理解している。

 している、はず、なのに・・・。

 「やっぱり、芸術点が高いな。」
 西脇の声に、紫乃は意識を現実に戻した。
 アリーナの掲示板に、先ほどの演技の点数が表示されている。5・8と5・9がほぼ交互に並び、6点満点もひとつある。
 「艶やか、でしたから。・・・とても。」
 “敵”だという認識があってさえ思わず見惚れてしまうほどの、官能的な演技だった。しかも、それが超Aクラスの技術に裏づけられているのだから、生半可なことでは歯も立たない。
 チャンピオンペアは、キス・アンド・クライで、花束に埋もれるようにして再び接吻をかわしていた。オーロラビジョンに映し出された映像を見ると、女性の目もとにはかすかな涙の気配がある。
 まさに“キス・アンド・クライ”だ。

 小さな苦笑が、紫乃の頬に滲んだ。
 紫乃と西脇は、“キス・アンド・クライ”でキスをしたことも、泣いたこともなかった。抱擁しあったことさえなく、せいぜいが軽く握手する程度だ。
 当然だ。
 自分たちは、いわゆる“ビジネスペア”だ。
 二人がリンクの上で手を握り合うのは、愛しあっているからではない。
 滑るために───ただ演技のために、掌を重ねる。
 それ以上のことなど、望んではいけない。
 望めば、クールで束縛を嫌う西脇は、するりと身をかわして紫乃の傍らから去って行ってしまうことだろう。
 紫乃は、何度も繰り返し、自分に言い聞かせた。
 この想いは、隠し通さなければならない。カンの良い西脇にけどられないよう、身体の奥に深く沈めて、葬ってしまわなければ。

 「何考えてる、ドクター?」
 ふいに顔を覗きこまれて、つい、視線を背けた。
 「大丈夫ですよ。」
 意識して、できうるかぎり沈着な声で返答する。
 「リンクに立ったら、ちゃんと演技に集中します。ご心配なく。」
 ・・・そうだ。集中しなくてはならない。世界選手権なのだ。

 この大会で優勝することは、紫乃の長年の夢のひとつだった。おそらく、フィギュアスケーターなら誰でもそうだろう。
 もっともその夢は、ここ一年たらずの間に、微妙に変化をとげていたのだけれども。
 今の紫乃にとっては、表彰台それじたいには、たいした意味はなかった。
 そこに“パートナー”とともに立つこと、立つに値するスケーティングを、彼とともにつくりだすこと。

 それが、夢だ。

 だから、集中できる。

 くだらない感傷など、押し殺してみせる。

 リンクでは、そろそろ清掃が終わりかけていた。花束からこぼれた花びらを丹念に拾い集めていた少女達が、所定のブースへと戻って行くのが見える。
 「西脇さん。」
 「ん?」
 紫乃は、思い切ってまっすぐ西脇の瞳を捕らえた。
 「・・・あなたと組めて、よかったですよ。」
 微笑んで、言った。言えた。
 「良い演技をしましょう。」
 通い合う恋情はなくても───それゆえに官能は存在しなくても、美しいハーモニーを作り出すことはできるはずだ。ダテに一年、互いに手を重ねて過ごしてきたのではない。将来のことはわからなくとも、少なくとも今は、西脇にとって最良のパートナーは自分だと、紫乃は信じている。自分にとって西脇がそうであるように。
 (それに・・・。)
 紫乃は、胸の奥だけで、ひっそりとつけくわえた。
 たとえ“ビジネスペア”であっても、リンクの上で音楽に乗っているあいだだけは、この男は確かに、自分の、自分だけの“パートナー”だ。すべっているときだけは、どれほど強く焦がれる視線で見つめても、許される。誰はばかることもない。演技という仮面が、禁じられた想いを、優しく覆い隠してくれるから・・・。





                                     つづく


わぁぁぁぁぁぁい♪

美夜深眠さまより1000に続き、2000hitのお祝いSSをいただきました!
今度は西橋カップルですぅ〜(*^v^*)

めっちゃエレガントでステキですぅっっ!!

ありがとうございますぅっっvvv











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